ギャップ必要論

 先日、学生と雑談していた時のこと。

 「うちの大学って、ここまでやってくれるんやなって思ってびっくりした」

 彼女はとある国家試験を受験するのだが、私の奉職する大学では、願書をまとめて請求し、受験希望の学生に配布をすることになっている。
 なぜこのようなシステムになっているのか、私も今の職場は長くないので詳しくは知らないが、おそらく「知らなかった」「聞いてなかった」と言う学生へのトラブル対策なのだろう、と推察している。他大学で教員をしている仲間から、最近は保護者が「どうして大学で○○してくれなかったんですか!」と大学に訴えに来るケースも少なくないという。私はまだ実際に出会ったことはないけど。

 彼女はこう続けた。

 「普通、大切なことって掲示板に書いてあるし、自分で何とかしていくものやと思う。それで困ったとしても、大学生なんて大人なんやから、自己責任だと思います。前の大学はそんな感じで、事務の人もめっちゃドライやったけど、うちの大学は手厚すぎるなと思って」

 私は彼女に対して「面倒見の良さを大切にしてるんだろうね」とフォロー(になっていない返答)をしつつ、心の中では「激しく同意!」と思っていた。

 学校教育では、ここ10年くらいで「中1ギャップ」という言葉をよく耳にするようになった。私も中学生に上がった途端、今まで遊んでくれていた近所の兄ちゃんが急に「先輩」になり、関係性がガラッと変わった。あと、普通は「テスト勉強」というものをするものなのだ、ということも初めて理解した。とにかく「ギャップ」に戸惑うばかりだった。
 高校になれば今度は、同じくらいの学力レベルの生徒が集まるので、ちょっとでも勉強をサボると、びっくりするような学年順位になり、中学まではそれなりに「勉強できるキャラ」で通っていた私も、最初は大きなショックを経験した。
 そして大学では「自由とそれに伴う責任」の重さを自覚した。そう、彼女が言っていたように、自分で重要な情報をキャッチするスキルが求められるのである。掲示板だけではなく、先輩・同級生・教員との繋がりの中で、自分にとって必要な情報を積極的に掴んでいかないと、いろいろ損をすることが多いんだなーと(典型的な例が、試験の過去問をゲットできるかとか)。どう過ごしても誰も怒りも注意もしない。もちろん「知らなかった」「聞いてません」では済まされない。

 次のステージに上がれば、当然求められる振る舞いも変わると思う。ギャップがあって当たり前。ただ、先述の中1ギャップ問題なんかは、お役所では「いかにギャップをなくすか」みたいな話も出ていたらしく(教育学の研究者の友人談。違ってたらごめんなさい)、それはちょっと違うんじゃないかなーと思ったわけだ。どちらかといえば、「いかにギャップを乗り越える力をつけさせるか?」という発想が大切ではないかと思うのである。乗り越えられたっていうエフィカシーと、次のギャップが来ても落ち着いて対処できるようになるのではないかと。

 大学としては、学生サービスという観点でいえば手厚さも大切なのかもしれないが、「大学はこれまでとは違うんだ、私たち大人なんだ」っていう意識を持てるようにしないと、今度は「社会人ギャップ」になっちゃうのではないか。いや、既になってるか?

 それなりにギャップを必死で乗り越えてきた私だが、最近は食べたら食べただけ脂肪になる「30代の身体ギャップ」にぶち当たり、どう乗り越えようか、日々悩んでいるのだ。でも、昼食のやよい軒のご飯おかわりはやめられない。あの漬物はうますぎ。